CBR マルコ11章、エゼキエル47章

おはようございます。 1週間が始まりましたね。 今日は1日雨模様みたいです。

CBRでは、ACTSというフォーマットで聖書を読んでいます。 具体的にどうやるんですかという質問をときどき聞くので、今日はここで、ちょっと長いですが、ACTSに沿ってやってみます。 今日の旧約も、とてもいい箇所なので、マルコとエゼキエル、いっしょに読んでみましょう。

 

A [見上げる]

●マルコ11:24 「祈って求めるものは、なんでも受けたと信じなさい。」…これは何でも自分の欲しいものが手に入るということではありません。 この前に葉の生い茂って見栄えのいい、でも実が一つもなっていない、いちじくの木が枯れるという事件と、イエス様が祈りの邪魔となっていた神殿礼拝を否定する場面がありました。 これは上っ面の表面だけの宗教ではなく、本当の愛・喜び・親切・善意…と言った「御霊の実」が必要だという手厳しいメッセージです。 「祈って求める」という話をその直後にしているのは、そういう「御霊の実」は自分で生み出すことはできないけど、祈るなら、神様が必ず与えてくださるというメッセージです。 葉だけの偽りのいちじくの木はなくなり、本当の実が生みだされていくという計画です。

●エゼキエル47

エゼキエルの見た神殿の幻です。 ここでは、本当の神様の神殿が描かれていて、そこからは「いのちの水」の川が流れ出ていて、そのほとりに植わる木からは実がたわわに実っています。 これが神様のビジョンです。 そうであるなら、私の信仰生活に本当の実を与えてください…と祈るとき、神様は必ず与えてくださるというのが、マルコとエゼキエルからわかってくるメッセージです。

主よ、本当の実を求めるようにあなたの命令に目を留めて、あなたを賛美します。

 

C[告白]

自分の信仰生活をみると、上っ面の「葉っぱ」に気を取られていることがなんと多くあることでしょう。 教会のプログラムを充実させること、礼拝に来た人数、いいウェブサイト、たのしい子どもプログラム、などなど。 でも、私たちの私生活の中に、本当の御霊の実が生まれていなければ、それは、葉っぱだけのいちじくと同じです。 パリサイ人や祭司たちの犯していたのと同じ罪を僕も犯しているのかもしれません。 主よ、上っ面の信仰生活という罪を赦して下さい。

 

T[感謝]

実のないところに実りを与えてくださるのは、イエス様だけです。 エゼキエルの見た神殿の幻と同じものを、ヨハネも見て、黙示録22:1-2に書き残しました。 「御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。」 いのちの水の川の出所がはっきりと書かれています。 小羊の御座です。 イエスキリストが、「わたしを信じる者は、その人の心の内から生ける命の水が流れ出るようになる」と約束した通りです。 イエスキリストはそのために十字架にかかり、よみがえりました。 あまりにも確かな約束だからこそ、マルコの11:24では、「すでに受けたと信じ」ていいんだと言っているんだと思います。 イエス様、あなたが十字架の死と復活によって与えてくださった「いのち」に感謝します。

 

S[祈り]

聖霊様、わたしたちを葉っぱだけのいちじくにしないで、たわわに実らせようとしてくださっている主の恵みに今日、もう一度信頼して、そのことを大胆に、祈り求めることができるようにしてください。 そして、私の力ではなく、イエス様のいのちの力によって、私たちの人生を、愛・喜びで満たしていって下さい。 今日も、罪との戦いに勝利することができるようにしてください。 私たちの歩みを通して、キリストの素晴らしさがほめたたえられますように。

Please reload

Please reload

Search By Tags