CBR マルコ8章、エゼキエル44章

おはようございます。 今日もまた、曇り空な一日ですね。 

今日の新約聖書はマルコの8章。  今日はちょっと長く…。

 

マルコ8:13-21

イエスは彼らを離れて、また舟に乗って向こう岸へ行かれた。

弟子たちは、パンを持って来るのを忘れ、舟の中には、パンがただ一つしかなかった。

そのとき、イエスは彼らに命じて言われた。「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とに十分気をつけなさい。」

そこで弟子たちは、パンを持っていないということで、互いに議論し始めた。

それに気づいてイエスは言われた。「なぜ、パンがないといって議論しているのですか。まだわからないのですか、悟らないのですか。心が堅く閉じているのですか。

目がありながら見えないのですか。耳がありながら聞こえないのですか。あなたがたは、覚えていないのですか。わたしが五千人に五つのパンを裂いて上げたとき、パン切れを取り集めて、幾つのかごがいっぱいになりましたか。」彼らは答えた。「十二です。」

「四千人に七つのパンを裂いて上げたときは、パン切れを取り集めて幾つのかごがいっぱいになりましたか。」彼らは答えた。「七つです。」

イエスは言われた。「まだ悟らないのですか。」

 

最後の言葉は痛烈です。 「まだ悟らないのですか。」 2回も行われていた奇跡を通して、弟子たちが悟らなくてはならなかったのは何でしょう。 「キリストはすべてを与えることができる方」であるということではないでしょうか。 何もなかった時に、イエスは5千人に、4千人に必要なものを与えてくださいました。 どうしてパンを用意しておかなかったのかとか、責めることは一切ありませんでした。 それなのに、弟子たちは13人で旅行に出たときにパンが一つしかなかったことに慌てて、お互いで責任の追及を始めました。 もちろん、準備しておくに越したことはありません。彼らもいつもはパンを用意しておいたし、それが常識だったのでしょう。 でも、たとえ用意できなかったとしても、その時には「主の助けがある」と信じ切ることがもっと大切です。 それなしに、どんなに用意周到に準備しても、それは、信仰とは言えません。 

「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種」に気をつけなさいとイエスは言いました。 「パン種」とはひそかに入り込んで大きな影響を与えてしまうものです。 すべてを台無しにしてしまうものです。 パリサイ人とヘロデに共通していたのは、自分の持っているものに頼る性質です。 パリサイ人は自分の宗教的行いを誇り、そこにより頼んでいました。 ヘロデ王は、自分の権力や財産を誇り、そこにより頼んでいました。 両者とも、何もないところで助けてくださる主を信じる信仰は(口ではあると言っていても)ありませんでした。 

 

私たちはどうでしょうか。 もしかしたら、そんな信仰がないことに今、気づかされるかもしれません。 でも、がっかりする必要はありません。 この後の、イエス様が盲人の目を開ける奇跡は、イエス様が、何度も目に触れてくれて私たちの信仰の目を開いてくださるという約束です。 

 

イエス様、今日、私たちの信仰の目を主が開いてくださって、何もないところでも、失敗した時にも、そこに注がれているキリストの恵みに信頼して行動することができるようにしてください。

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